私は、自分の記憶をこれっぽっちも信用していない。
いや、正確には「信用してはいけない」と、
これまでの人生で痛いほど学んできたのだ。
かつて働いていた職場でのこと。
古株として君臨していた私は、上司から
「これ、いつ頃の施策だっけ?」と聞かれるたびに、
自信満々に答えていた。「1年前くらいですね」。
だが蓋を開けてみれば、3年前。
逆もまた然りで、3年前だと思っていたことが
実は半年前だったりする。
私の時間感覚は、標準時計とは別の独特な時間軸で動いているらしい。
「ユイの記憶、当てにならなすぎだろ!」と爆笑される日々。
ぐうの音も出ない。
ちなみにその上司とは今も仲良しで、
2人の合言葉は「私の記憶はあてにならない」である。
私の記憶のザルっぷりは、対人関係でも遺憾なく発揮される。
ある日、彼氏が持っていたハンカチを見て、私は無邪気に尋ねた。
「それ、誰からもらったの?」
彼は呆れた顔で言った。「……ユイだよ」
嘘でしょ。
だが、どうやら事実らしい。
私は、自分があげたものすら忘却してしまうのだ。
これが地味に困る。
あげたことを忘れて「誰からもらったの?」と聞いてしまい、
喧嘩に発展しそうになることがある。
彼氏には本当に申し訳ないと思っている。
友達に「これ、ユイからもらったんだよ」と言われて
「えそうなの?」と返してしまうこともある。
そのものを見て「可愛いね」と言ったら
「それユイからもらったやつじゃん」と突っ込まれる。
笑い話ではあるが、毎回なかなかの衝撃だ。
そして最近、また事件は起きた。
風呂場に見覚えのない「無印良品のメイク落とし」が鎮座していたのだ。
私の脳内には、一瞬で「浮気」の二文字が躍り出た。
え、誰の?なぜこんなに堂々と置いてあるの?
だが、問い詰める寸前で踏みとどまった。
いや待てよ。……これも私があげた可能性、
ゼロとは言い切れないのではないか?
咄嗟に思いとどまり、あえてそのボトルを目立つ場所に移動させて
様子を見ることにした。
もしやましいボトルの主がいるならば、何かしらの反応があるはず。
だが、彼は完全スルー。微動だにしない。
……はい、私があげたやつですね。確定。
問い詰めなくて、本当によかった。
ここで、ある知人の話を思い出す。
仕事はできるのに、お酒が入ると見事に記憶を飛ばす人がいた。
ある飲み会で、会計の時に「じゃあ計算するね」と張り切って引き受けてくれたのはいいが、
酔いながらも必死に誰がいくら出したかをメモしている姿を見て、
私は感動して言った。「ちゃんとしてるね」。
すると彼は、虚空を見つめながらこう言い放った。
「一番信用できないのは自分だから、メモするんだ」
なんて強い言葉だろう。
私は深く感銘を受け、「よし、私もメモ魔になろう」と決意した。
……だが、彼の話には後日談がある。
翌朝、そのメモを見ても何が書いてあるかさっぱり分からず、
結局周囲に「昨日どうだった?」と確認して回るのだという。
不完全な努力が、どこか愛らしくて救われる。
ちなみに忘れっぽいことにも、一つだけメリットがある。
悪いこともついでに忘れるのだ。
だからイライラが長続きしない。
根に持たない、というより、持てない。
これは性格というより、もはや体質だと思っている。
たぶん私は、これからも自分のプレゼントに驚き、
自分の記憶のバグに振り回されるだろう。
それでも定禅寺通りのケヤキが毎年新しく芽吹くように、
私の忘却もまた、毎日を新鮮にしてくれる機能なのかもしれない。
そういうことにしておく。
【ついでに気づいたこと】
・自分があげたものを忘れて「誰からもらったの?」と聞いてしまう。喧嘩になりかけたことがある。
・問い詰める前に「これも私があげた可能性がある」と立ち止まれるようになった。成長なのかもしれない。
・悪いこともついでに忘れるので、イライラが長続きしないらしい。メリットと呼んでいいのかは微妙なところだと思う。



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