ミスを減らす「一個前」を疑う習慣|部屋に水をぶちまけた私が気づいた、セルフプロデュースの罠

今日、私は部屋中に水をぶちまけた。

夜、薬を飲もうとして、手元が狂ったのだ。
もはや「こぼした」というレベルではない。
広範囲に、均一に。
それはまるで計算し尽くされたかのような「散布」であった。

濡れた床を拭きながら、私はふと冷静になった。

私は昔から自分を「おっちょこちょい」だと思って生きてきたが、
果たしてそうなのだろうか。
ぶちまけた瞬間の私を責める前に、
もっと見るべき場所があるのではないか。

視線を戻すと、コップが置いてあった場所が目に入った。
……テーブルの、ギリギリの縁。

「いつか落ちますよ」と看板を立てておきたいほどの崖っぷちである。
今まで落ちなかったのが奇跡、
耐えてくれてありがとうとコップに感謝を捧げるレベルの悪条件だ。

ここで、以前YouTubeで見かけた話を思い出した。
ミスをした瞬間ではなく、その一個前の行動に原因が詰まっている、という考え方だ。

例えば、飲み会でビールをこぼす人。
あれは酔いのせいだけではない。
そもそも「肘が当たりやすい位置」に置いている。
つまり、座席に座った瞬間、すでに「散布の儀」の仕込みは終わっているのだ。

今日の私も、まさにそれ。
私が事故現場をセルフプロデュースしていたのだ。

思えば、雨の日に滑って転んだ時もそうだった。
雨で地面が滑るという物理法則は不変なのに、
私は晴れの日と同じ軽快な足取りで歩いていた。
そりゃ転ぶ。

ちなみにこれより壮大なやらかしもある。
彼氏とおしゃべりしながら道を歩いていたら、
歩道と車道を分けるプラスチックの柱に気づかず激突して、
5cmの傷を作ったことがある。
人生で初めて縫った。
おっちょこちょいというレベルではない気もするが、
一個前を疑うなら「前を見て歩いていなかった」という
仕込みは完璧だった。

「おっちょこちょい」という言葉は響きが可愛らしくて
罪を軽減してくれるが、
実態はしっかりとした不注意の積み重ねである。

これは、焼肉屋の前掛けと似ている。

「タレは、はねるものである」という前提で生きている人は、
前掛けという防御を固め、被害を最小限に抑える。
対して「今日ははねないだろう」と自分を過信した人間だけが、
白い服に一生消えない勲章を刻むことになる。

私はこれで学んだ。
焼肉屋に行く日は、汚れても目立たない色の服を選ぶと。
前掛けをするのは当然として、服の色でも守りを固める。
これが大人の焼肉作法だと思っている。

ミスを防ぐには「一個前」を疑うしかない。
コップを置く位置を、縁から10センチ遠ざける。
雨の日の歩幅を、いつもの半分にする。

実際、これを意識してから転ばなくなった。
コップの位置も気をつけるようになった。
小さな「仕込みの変更」が、じわじわ効いている。

私の散歩……いや、散布の歴史は、少しずつ変わりつつある。

もっとも、楽しい夜に盛り上がってビールをこぼす問題だけは別枠だ。
あれはもう、楽しい夜への供物のようなもの。
そこだけは自分に甘い免罪符を発行しておこうと思う。

【ついでに気づいたこと】
・コップをテーブルの縁に置く習慣がある人は、すでに「散布の仕込み」が終わっているらしい。
・雨の日に転ぶのは、晴れの日と同じ歩き方をしているからかもしれない。物理法則は不変らしい。
・焼肉屋に行く日は、汚れても目立たない色の服を選ぶようになった。前掛けだけでは守りが足りないらしい。

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